一句鑑賞 / 小川めぐる「はつはる」

小川めぐる 氏(いつき組 :夏井いつき組長)の知命ならびに俳句ポストの 金曜選 を慶して、誠に僭越ながら「百年の旗手」に掲載された同氏連作の鑑賞を添えて、豊祝の辞と代えさせていただきます。ここに記して、心よりお欣び申し上げます。

小川めぐる 『はつはる』 / 「百年の旗手」 2017年01月号

02月号 「はつはる」 は来週、03月号 「春来たる」 は再来週 に更します。ご笑覧ください。


『はつはる』 小川めぐる


にはとりを拝みて今年始まれり

今年は丁酉。酒壺の意である「酉」は、成熟の極みに達する果実。「拝む」所作に目を凝らしたことで、神に奉る御饌と豊穣の感謝が浮かぶ。「始めれり」は、始む(古語:他動詞・下二段)ではなく、現代語の活用だろうか。現代語が「今年」の瑞々しさを感じさせる。

なんだつて書ける白さよ初暦

「白さ」に焦点を当てて、季語の抱く期待を強く惹きたてる。その白さを「よ」で切る柔らかさは、仄かな瑞祥を掬いあげる作者の優しさ。「なんだつて」の口語に、無垢な希望と夢が現われる。

舟の形の雲もあり初御空

上中の句跨り。上五は「舟形の」と充てれば破調を整えられるが、敢えて「の」を繋げて、たゆたう雲のひとつひとつを写す。「舟形ではない」他の雲も連想させることで、季語と向き合う作者の姿を立たせる。

歌留多会極楽鳥花など活けて

ストレリチアのうち、レギネ種あるいはオーガスタ種だろうか。南国の暖かさを思わせる掲花は、窓辺の陽を好む。華やかながらも激しい歌留多会を控え、嘴に似た萼に光が注ぐ。云い切らない下五は、却って季語の行末に想像を掻き立てる。

スカーフにモアレの見ゆる淑気かな

干渉縞と淑気に通底する、漣のような詩情。掲句は「スカーフをモアレの見ゆる」「スカーフのモアレを見ゆる」ではない、モアレに焦点を当てたところに面白味をもつ。

勝ち馬の湯気たつ背中や初競馬

寒さに抗う湯気よりも、競争を終えた馬の背腰に目を凝らしている。胴の短い、寸の詰まった馬体だろうか。後肢の逞しさ、鯉背の美しさ、そして勝利の誇らしさ。焦点を絞ることで、馬を看る作者の眼差が浮かぶ。

初濯ごうんごうんと繰り返す

「もはや戦後ではない」と云われた神武景気は、三種の耐久消費財を「神器」と謳った。豊かさと憧れの象徴は生活必需品となったが、既に白物家電の多機能競争は終焉を迎えている。静音化されていない洗濯機、あるいはその容量を超える衣類。洗濯槽を回す音は、決して静かとは云えない。毎年のように売られる新型へ買い替えることなく、昨年と同じ洗濯機を使う新年。作者と過ごす家族は、昨年と変わらない愛に満ちている。

入念に髪整へて春着の子

正月の晴着を装う子は、親にとって他の日よりも特別なのだろう。明治三十五年に「数え歳」が廃されてなお、正月に歳をひとつ重ねる感は強い。子の成長を刻もうとする親の用意は、丁寧や懇切を超えて「入念」と云うべき緻密な愛である。

しばらくは蘿蔔の汁椀となる

素気ない上五が季語に似合う。調理法に富む清白は、春の七草に留まらず一年を通して料理や薬味に供される。瑞々しい一本を買い求めても、単身あるいは夫婦のみでは一度に使い切れない。旬を味わい尽くす工夫が、食卓に並べられる。「しばらくは蘿蔔の汁/椀となる」と切りたい。下五の「椀となる」に大根と作者の温かみが窺える。

小豆粥歯のなき夫となりにけり

穏かな慈しみに満ちた佳句。望粥は語らないが、歳を重ねた夫を想う心が季語に託される。下五「なりにけり」と云い切る強さに、永年に亘って連れ添う夫婦の確かさが現われている。邪気を払い健康を願う小豆の鮮やかな色が、夫婦の深い愛を染める。二人のハレの日は、ケの日と変わらぬ敬慕に溢れているのだろう。

2件のコメント

  1. わわわわわ!!!
    衒叟さん、何ということを・・・何と有難いことを(T△T)
    一句一句をこんなにも丁寧に評して下さり、もはや感涙で前が見えません・・・!

    >昨年と同じ洗濯機を使う新年。作者と過ごす家族は、昨年と変わらない愛に満ちている。
    こんなふうに書いて頂いて、凄く嬉しいです・・・ああ、心が潤ってゆく(T▽T)
    鑑賞に耐えない未熟な句も多いと思うのですが、衒叟さんの優しさと博識に感謝です!
    先月で節目の歳を迎えてしまって内心焦っていたのですが、
    何よりのプレゼントになりました、本当に本当に有難うございます!!!
    来週、再来週も心待ちにしております、
    うわああああーーー嬉しすぎて今夜は眠れな・・・いや、いい夢が見れそうです、本当に有難うございます!!!

    1. めぐるさん

      出張が続いて、お返事が遅くなってしまいました。

      幼い私が申し上げるのは甚だ烏滸がましいのですが、老若にかかわらず節目をお迎えになられるのは喜ばしいことと感じます。十歳であっても百歳であっても、それぞれの節目にそれぞれの想うことと語ることがあり、句作を通じてこれを残せるのは幸せのひとつではないでしょうか。長命の世において「知命」は若さの残る節目ですから、これからも益々のご活躍を祈念するばかりです。

      私のほうこそ、不器用ゆえに瀟洒なお祝いも述べられず、拙い句評を以って代えさせていただきました。お目汚しかもしれませんが、ご寛恕ください。

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