一句鑑賞 / 小川めぐる「春来たる」

小川めぐる 氏(いつき組 :夏井いつき組長)の知命ならびに俳句ポストの 金曜選 を慶して、誠に僭越ながら「百年の旗手」に掲載された同氏連作の鑑賞を添えて、豊祝の辞と代えさせていただきます。ここに記して、心よりお欣び申し上げます。

小川めぐる 『春来たる』 / 「百年の旗手」 2017年03月号


『春来たる』 小川めぐる


砂場には貝殻雲母二月尽

暦では春を迎えたものの、未だ寒さの残る二月。その二月を終えて三月が訪れるとき、ようやく陽春を迎える。春を近くに感じる嬉しさと歓びがマイカのように輝く。上五は、大首絵の「きらずり」も連想させる。「には」は賛否あろうが、作者の実感。

春暁や水は光の珠になり

曙に光るなら理屈だが、暁に光るなら一片の詩情。日の出づる気配が満ちる薄暗い未明、ゆっくりと夜に滲む春の陽。光ならざるものは、水を映して光となりうる。「珠となり」ではなく、「珠になり」。作者の心情は、珠に映されている。

瘡蓋はひりひり紫花菜咲く

野菜にも油菜にも搾菜にも活かされる諸葛菜は、蜀漢の孔明がレーションとして流布させた。後漢は「三国鼎立」と呼ばれるものの、蜀漢の国力は曹魏の十分の一に満たず、瘡蓋のような小さな痛みに過ぎなかった。掲花は整えられた庭園ではなく、路傍に咲いていると読みたい。精悍な美しさを湛える季語は、人々の営みによって多くの花を咲かせる。

白詰草しゃむしゃむ馬の半眼

「白詰草しゃむしゃむ/馬の半眼」と切れるだろう。「しゃむしゃむ」に作者の温かな眼差しを感じる。四葉のクローバーも含まれるのだろうか。

雲雀東風あの芦毛クロフネと云ふ

句型に則れば「クロフネてふ芦毛の馬や」と充てられるが、敢えて言い切らない。芦毛ながら「黒」を冠する競走馬を据え、その気高さと気付きのみを現わす。説明を避けて「あの芦毛」「と云ふ」と自らを遠くに置く、敬慕と慈愛。季語は、大洋を超えた東の大国を連想させるか。ダートの最強馬に、荒ぶる強さのなかの晴れやかな明るさを感じる。

春来たる鳶大きな輪を描けば

冬鳥である鳶の滑空に春を感じる。下五は、連用形ではなく已然形。因果が窺えるが、倒置が効いている。

初百合の下に妖精来る気配

一読すると「の下に」「気配」が説明的に感じられるが、貝母ゆえに景が引き立つ。別名の天蓋百合は編笠を現わすが、掲句ではキャノピーを連想したい。ガーリーなベッドならエルフやリリスが訪れても不思議ではない。しかし妖精は気まぐれで、訪れないかもしれない。「の下に」「気配」の冗長が移ろい易さに似合う。

犇めける春のルージュの中にゐる

掲句のルージュは、口紅でもなく弁柄でもなく、仏語の色名だろう。散文のような下五が、却って読み手の想像を拡げる。上五によって、丹朱緋紅の濃さと深みを増す。作者は何を視ているのだろうか、何処に居るのだろうか。

山焼の夜や錆猫の集う庭

たとえば、山焼や錆猫集ふ庭の夜、では成り立たない。「山焼の夜や/錆猫の集う庭」と大胆に切ることで、山焼の「夜」に感嘆を現わす。野山の夜の昏さ、静けさ、臭い。村里の人々ではなく、猫の営みを惹き立てて、山火の名残を感じさせる。「焼」と「錆」は近いが、実景に迫る。

髪をピンクにしたき春である

口誦に富む下五は、作者の師の代表句『野茨や寓話のような月である』を思い起す。上中は句に馴染みにくい俗だが、「春」と云う大きな季題を強く言い切ることで、詩へ昇華しようと試みている。ピンクと春は近く、併せて「ピンク」の印象も相当に強いが、この季題ゆえに受け止めているか。読み手の解釈を揺さぶる一句。