「俳句と暮らす、俳句に潜る」の対談を聴きました

2017年05月30日(火)、大阪の蔦屋書店梅田店で催された 「俳句と暮らす、俳句に潜る」 の対談を拝聴しました。

小川軽舟先生の『俳句と暮らす』、小澤實先生の『俳句の海に潜る』。俳壇を代表されるおふたりのご高著を記念するトークイベントです。「鷹」藤田湘子門下の弟弟子と兄弟子であるおふたりが、それぞれの道を歩まれたのち、遂にこのような機会を迎えられました。私淑する先生のご尊顔を拝するのは、はじめて。栄に浴して失神するところでした。

トークに加えてサイン会も催されましたが、今ご染筆たまわれば作句を甘えてしまうと思い、ご挨拶も辞して帰路に就きました。次に参じるときはご揮毫をお願いできるよう、作句の力量・技量・度量・器量を磨き努めます。

拝聴したお話を自ら昇華させるため、自身の手元に書き付けた控帳をもとに対談を振り返ります。覚えも悪く、あやふやな記憶をたどって思い起こしているため、聞き違えているかもしれません。正しさや確かさを保証するものではなく、話を徒らに触れ散らかすものでもなく、あくまでも自身の備忘録です。


「鷹」主宰 小川軽舟先生 (以下、軽舟先生)

「澤」主宰 小澤實先生 (以下、小澤先生)


◆ 『俳句と暮らす』より「酒を呑む」

> 軽舟先生

小澤さんは兄弟子。藤田湘子と云う共通の師匠のもとで、小澤さんに兄事。端的に、決して大袈裟ではなく、わたしのこれまでの人生でもっとも影響を受けた人物は、小澤さん。

小澤さんに初めて逢ったのは、「鷹」の新人会。全国の「鷹」会員のうち、東京に居る20~30代の者が集まって、新人会で学んだ。小澤さんはそのリーダー。当時の小澤さんは30歳を迎えたばかりで、第一句集の『砧』を出して鷹の編集長に就き、新進俳人としてまさに伸び盛りの頃。わたしは25歳で、小澤さんと五歳の違い。三十年前は二人とも童顔で、小澤さんは25歳、わたしは大学生にしかみえなかった。

当時の小澤さんは、「文学青年だけど無頼の徒」「誠実だけど、どこか抜けていて いいかげん」の印象。そういうところに惹かれた。俳句はもちろん、酒と骨董も教わった。この三つに強い影響を受けて、その後のわたしの人生を少なからず動かした。

師匠の湘子は、俳句を秋櫻子に教わるとともに、生き方を兄弟子の波郷に学んだ。酒の呑み方も波郷に学んだらしい。わたしも、酒の呑み方を小澤さんから教わった。

小澤さんは、仲間と会うことをなによりも大切にされていて、新人会が終わると必ず呑みに誘ってもらった。小澤さんの第三句集『瞬間』の「入る店決まらで楽し冬灯」の句をみて、いつまでも小澤さんは変らないな、と思った。これは、まさに新人会の句会を終えたあとの光景。なかなか店が決まらず、誰かが斥候のように店へ飛び込んで、満席で帰ってくる。そのようなことを鮮やかに思い出す。若い頃に小澤さんと濃密な時間を過ごせたことを、今も誇りに思う。

小澤さんは、下北沢の場末の居酒屋のテーブル席で、桐箱からぐい呑みを取り出し、帰るときはおしぼりで拭いて箱に収めていた。カッコよかった。

忘れがたいのは、田中裕明さんと小澤さんの三人で、三島で呑んだこと。老舗のパン屋の二階で、三人のまんなかに置いた一升壜を胡坐で囲んだ。あのような場を得られたことを、とても嬉しく思う。

> 小澤先生

軽舟さんに「兄事」と仰っていただいて、ありがたい。大事にしてもらっていることを嬉しく思う。『俳句と暮らす』においても、愛を持って取り上げてもらい、とても嬉しい。僕は、「澤」創刊より前の記憶が抜け落ちていて、ほとんど覚えていない。新しい発見のようなつもりで『俳句と暮らす』を読んだ。ぐい呑みを皆の前で出していたことも、まったく覚えていない。そんなことしていたのか、と自ら呆れる。「澤」を始めてからも やっていたが、ご注意くださる方がいて、もう辞めた。ご注意いただく方がいて、よかった。

「鷹」時代の記憶は、安らかに生きてゆくために消したいことが多い。


◆ 好きな「酒の一句」

> 軽舟先生

飲めるだけのめたるころのおでんかな / 久保田万太郎

小澤さんの『万太郎の一句』でみつけて以来、好きな句。小澤さんが「鷹」を離れたあと、しばらく小澤さんと会いづらかった。湘子が生きているうちに小澤さんと接することが知られようものなら、直ちに破門されかねなかった。湘子が亡くなって、わたしが主宰に就いてからも、なんとなく気まずかった。高橋睦夫さんが心配してくれて、やがて再び会うように。若い頃は底知れず呑んでいた小澤さんも、酒の席で健康診断や血糖値を気にして、酒量をひかえている。小澤さんもずいぶん変った。もちろん、若い頃のままの勢いで呑んでいたら、生きていられない。この句は、小澤さんも身に沁みるのではないか、と思って択んでみた。

> 小澤先生

冷奴隣に灯先んじて / 石田波郷

湘子を思い出す句。今の季節、機嫌の良いときの湘子は、この句を口遊んで呑み始めていた。湘子を懐かしく思う。

しばらく湘子のことを解らなかったが、「東京やなぎ句会」で柳家小三治師匠から、「湘子は小澤が辞めたあとに悩んでいた」「あの湘子に弱音を吐かせるほどの小澤と云う奴の顔をみてみたい」と聞かされた。

湘子と会わずに「鷹」を辞めた。置手紙ならカッコいいけれど、事務局連絡ボックスに紙一枚だけ残して、辞めた。批判も多かったが、矢野誠一さんから「小沢昭一さんは褒めていた、あのまま湘子と会っていたら小澤さんはやっていけなかった」と聞いた。理解してもらえて、本当に嬉しかった。

そのようなことを経て、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、僕の湘子観も変ってきたのかもしれない。

軽舟先生 > 湘子も小澤さんも、双方をみてきたが、師弟の関係は傍から判らないことも多い。ただ、湘子にとって、小澤さんが「鷹」を離れたのは、まったくの予想外だった。


◆ 『俳句と暮らす』より「会社で働く」

> 軽舟先生

兼業俳人として、どのように俳句と向き合う時間をつくっているのか。今日の格好(背広)をみても、兼業と専業の差が現われている。「兼業俳人」は、兼業農家みたいに、専業俳人よりも一段劣るようにみえて寂しく思う。

家族を養うために働き続けてきた。俳句は、仕事ではない。仕事を持って働くからこそ、俳句では好きなことだけやれる。そのわがままを通すために、兼業を続けている。このように自分を慰めているが、本当は小澤さんの生き方をカッコいいと思っている。小澤さんは、40歳を超えて還暦を迎えたが、それでも「無頼」を感じる。

俳句へ振り向けられる時間は少ないが、主宰誌の選は、いちばん重い。選によって、俳人としても、自分自身としても、育てられる。選句によって、「人よりも俳句がみえてくる」。自信と云うのは口幅ったいけれど、正岡子規もたくさんの句を読んだからこそ自信をもって活動できた。選を通して、力をもらっている。力をもらわないと主宰は務められない。

> 小澤先生

軽舟さんは、しっかりしているから兼業できる。僕にはできない。40歳前に専業となって、俳句だけやってきた。僕は、河原者。芸術家ではなく芸能者のひとり。軽舟さんは、岸に留まっている。岸に留まるのはスゴイこと。

専業俳人として、どのように時間を過ごして、どのように俳句の糧を得て、かたちにしているのか。とにかく選。専業俳人は、選が仕事。選の毎日。選によって感覚を磨き、類想感を身に付ける。「選を磨く」日々。

「作句している自分」と「選句している自分」は、違う。どちらも難しい。選は、努力によって、どうにかなるものではない。ずっと続けてきたから、できるものでもない。選は大事。主宰誌の選は特に重い。


◆ オススメのアンソロジー

> 小澤先生

俳句を学ぶうえでアンソロジーは有用。『近現代詩歌』において、近代俳句のスタートを子規ではなく井月とした。井月は、岩波文庫の黄帯。江戸時代までの古典文学は黄帯、近現代文学は緑帯。幕末から明治にかけて、文明開化も詠んでいる。井月をスタートとすれば、江戸と明治が断絶せずに持続する。平成俳句の最後は、攝津幸彦と田中裕明。平成の無風のなかで、二人が居てよかった。

平井照敏の『現代の俳句』は、いいかげんな本ではあるけれど、しっかりしている。『現代の俳句』が手にとりにくいので、『近現代詩歌』を編んだ。50名しか挙げられなかったが、とても大切な一冊。存命中の俳人は取り上げていない。これから名句が生まれるかもしれないので、取り上げてはならない。可能性を残している。

> 軽舟先生

わたしが俳句を始めたきっかけは、山本健吉の『現代俳句』を読んで。多くの俳人にとって、バイブルのように大切な本。俳句を始める人は、ぜひ読んでほしい。非常に優れた俳句鑑賞であり、近現代俳句史。ただし、俳句史は、子規や虚子から始める流れに限られているため、偏っている。それでも、その流れは太くて高い山脈を成していて、これを学ぶことは俳句の本質を知るうえで欠かせない。

小澤さんは、『現代俳句』で漏れているものを『近現代詩歌』で丁寧に拾い上げている。明治の俳句革新は、子規だけではない。子規に並び立っていた尾崎紅葉、江戸時代以来の旧派の流れを汲む増田龍雨、山本健吉が見向きもしなかった新興俳句や前衛俳句なども、小澤さんは拾い上げている。

『近現代詩歌』は物故者に限られているが、それがよかった。田中裕明は45歳で亡くなったけれど、完成されている。人は、死ぬと完成する。生きているうちは、皆、途上。我々の世代は、現代俳句の俳句史観を訂正・更新してゆくものをつくっていかなければならない。小澤さんのアンソロジーは、その第一歩。


◆ 芭蕉の存在

> 小澤先生

俳句というものを始めた、巨大な存在。それまで、自分の人生を材料にして詠んだ俳人は存在しなかった。十七年に亘って『ひととき』で原稿用紙5枚の芭蕉鑑賞を連載している。芭蕉が句をつくったところを訪れて、その大きさを確かめている。『ひととき』はグリーン車に乗らないと読めないが、新大阪駅の売店でも売っている。来年か再来年あたりに「京都滋賀編」をまとめたい。

中沢進一さんは、芭蕉の自然観にアースダイバー性を感じている。「かくれけり師走の海のかいつぶり」は只事句のようにみえるが、芭蕉のアースダイバーの源。アメリカインディアンにとって、かいつぶりはアースダイバー。アメリカインディアンの神話では、かいつぶりが浚う古い泥から新しい世界が生まれる。芭蕉を知っていたのだろうか。

「薦を着て誰人います花の春」は、筵を着ることによって自然のなかへ入ってゆく姿勢を示す。自分の躰を低くして自然のなかへ入ってゆく、アースダイバーの生き方が現われている。芭蕉の生き方にアースダイバーが重なる。

俳句史における芭蕉の大発明のひとつは、「人生を詠む」こと。もうひとつは、「取り合わせ」。取り合わせを始めたのは、芭蕉と考えている。取り合わせの方法を得たことで、俳人は大きな空間を五七五でつくりだせるようになった。芭蕉が自らの人生を詠んだ最高傑作は、晩年の「この秋は何で年寄る雲に鳥」。死が近づいている頃、大阪で詠まれた句。

> 軽舟先生

草田男・波郷・楸邨は、それぞれ芭蕉を研究していた。人間探求派は、配合の手法を大胆に用いて人間と人生を詠んだ。それよりも遥かに前に、それよりも遥かに高い境地で、芭蕉は人生を詠んでいた。芭蕉は、単に平坦な人生ではなく、自身の人生をギアチェンジしながら演じていた。

『俳句と暮らす』では、深川で暮らしていたときの芭蕉をトレースした。旅に出る芭蕉も素晴らしいが、暮らしているときの芭蕉に親近感を覚える。「朝顔に我は飯食ふ男かな」は、単身赴任者として共感する。其角の「草の戸に我は蓼食ふ蛍かな」に応じて、敢えてこのようなことを詠む俳人は、それまで居なかった。「名月や池をめぐりて夜もすがら」は、旅先の立派な池と思っていたが、あの蛙が飛び込んだ芭蕉庵の古池。「朝顔は下手の書くさへあはれなり」の前書は、「嵐雪が描きしに賛望みければ」。

家にあって、親しい仲間たちが船で来てくれる。自分の住まいに居ながら仲間ととともに在る楽しさ。今のわたしは、定住しながら漂泊しているような芭蕉の生き方に惹かれる。


◆ 俳句のアニミズム

> 小澤先生

アニミズムは、自然を深く捉える方法。現代人は、自然に鈍くなっている。アニミズムは、鈍くなっている現代人が再び自然のなかへ入る「鍵」。宇宙には流動的なスピリットが満ちている。立ち止まると石や木が現われる。すべてのものは、スピリットの現われ。自然と触れることは、スピリットと交歓すること。

アニミズム俳句は「人間以外のものが人間的に現れる」と云われるが、それだけではないと中沢さんに教わった。誓子には都会的でモダニズムの印象があるが、現代の都会にあってもアニミズムは成り立つ。「夏草に汽缶車の車輪来て止まる」の車輪にもアニミズムは宿る。モダニズムだけでは片付かない迫力に、新しい誓子の読み方を感じる。秋桜子や波郷の「抒情の系譜」も、アニミズムが沁み込んだ抒情。

「天地有情」の虚子は疑似宗教的な世界観を持つが、これはアニミズムと異なる。ホトトギスは「時ものを解決するや春を待つ」のような句を大切にしているが、実は僕も大切にしている。辛いことがあると、それを思って生きる。しかし、これとアニミズムは異なる。

> 軽舟先生

わたしは、俳人としてアニミズムがいちばん薄いタイプではないか。俳人としての弱さ。小澤さんは、いつから縄文や古墳が好きになったのか。よく酒を呑んでいた頃は、そのような話は聞いたことがない。わたしは、ゴテゴテした縄文土器よりも、スッキリした弥生土器のほうが好き。わたしは、弥生土器。

草城の「ものの種にぎればいのちひしめける」は、土俗的なアニミズムのようにみせてモダニズムを感じる句。才気走っていて、アタマの良い人が机の上でつくった句。アタマが良すぎて、整理されすぎていて、アニミズムの余地がない。

虚子の擬人法に「アタマが良い人がつくった句」を感じる。一方で、「もの」が顔を出している虚子の句に惹かれる。大いなる「もの」が過ぎ行く野分かな、枯菊に尚ほある「もの」をとどめずや、石ころも露けき「もの」の一つかな。世界の本質を大づかみしたような「もの」がたくさん出てくる。もっとも有名なのは、去年今年貫く棒の如き「もの」、だろう。野分句は、大いなる野分ではなく、大いなる「もの」が過ぎている。今ここに現われているのが、野分。野分の背景に「もの」を感じる。これが、二元論のアニミズムのスピリットのようなものだろうか。虚子の「もの」の捉え方にアニミズムの気配を感じる。

「鷹」に入ってすぐ小澤さんから『砧』を譲っていただき、「ふはふはのふくろふの子のふかれをり」の句を書いてもらった。当時は大した句とは思っていなくて、「いのししのこども三匹いつもいっしょ」に似たような、語呂と調子の良い句と感じていた。最近になって、だんだんと見方が変ってきた。もちろんの調べの楽しさもあるが、今ここにスピリチュアルなものが在る驚きを感じられる。ふくろふの子は、神の子ではないか。年齢と成長を重ねるにしたがって、鑑賞も変ってくる。


◆ 芭蕉が配合を発明したのはなぜか

> 小澤先生

俳句の新しい世界を作り出すため。創造の革新のため。和歌の枕詞や序詞のような、意味以外の別の要素を参考にしたのではないか。


◆ 結社の主宰として結社誌でこだわっていること

> 軽舟先生

湘子がもっともこだわってきたことを、わたしも引き継いでいる。もっとも大切にしているのは、「主宰の俳句を真似させない」こと。俳句の多様性というものを、「鷹」という結社で実現したい。

多様性を目指すこと。集団の力でひとつの方向を突き詰めること。ふたつの方法がある。「鷹」は多様性を目指して、湘子のもとで、一人も似ていない個性を培ってきた。それが、「鷹」の豊かさ。わたしも、「鷹」のいちばん誇るべき存在にしていきたい。

『俳句と暮らす』以降、サラリーマン俳句の投稿が増えているが、わたしよりも下手だから採れない。主宰の句に擦り寄ろうとすると、主宰よりも下手であることがみえる。大事なのは、主宰がつくらない句をつくること。「鷹」の皆は、それを心得て、さまざまな句を出してくれる。推薦三十句の多様性こそ、「鷹」の命。

> 小澤先生

主宰の選の原動力は、まず「驚きたい」ということ。投句で驚かせてもらいたい。その驚きによって、僕は新しい俳句を世に出していきたい。

また、本として「美しいもの」を目指している。山口信博さんのブックデザイン。美術として、オブジェとして、残るものを残したい。


◆ 「選を磨く」「選によって俳句がみえてくる」とは

> 小澤先生

「選を磨く」とは、端的に云えば、類想表現に習熟すること。たくさんの句をみることで、類想を明らかにする。その類想に気を付けて、類想を採らないこと。

> 軽舟先生

わたしも、類想の排除をいちばん大事にしている。しかし、たくさんの投句者がいるので、似たような材料や表現も多い。それぞれの作者と向き合って、その進歩の過程のなかで一度は詠んでも仕方ないものであれば、作者の成長を促すために採ることもある。

選によって磨かれ、選によって育てられる。人の句の良し悪しはよくみえるが、自分で句をつくるときはみえにくい。アタマの中にあるイメージが、適切な言葉に置き換わっているか。その言葉や表現から、読者が同じものをアタマに描いてくれるか。助詞は働いているか。イメージの立つ言葉を択んでいるか。

主宰は、作者にとって最初の「第一読者」だから、良し悪しがよくみえる。みえることを繰り返すうちに、的確な言葉、的確な表現、的確な助詞がわかる。ここをこうすればよいのでは、とみえてくる。主宰は、選によって育てられている。それでも、自分の俳句をつくるのは難しい。選者といえども、自選は難しい。自選と他選は違う。

選は自分を磨くが、消耗することもある。投句も多いので、選を終えるまでは消耗する。選を経て印をつけたものだけ読み返すと、その過程で回復する。佳い句を選ぶと、元気になれる。推薦三十句がダメだったら、翌月まで疲れをひきずってしまう。佳い句があれば救われる。佳い句には、回復させる力がある。