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コンサルトの場で、企画を通したい、計画を立てたい、と相談をうける。「どうしたら巧くできますか」と訊かれる。

スポーツやアートも同じだろうが、どうして「巧くできない」と言うのだろう。なにを考えたの、なにを書いたの、できたものを見せてみて、と訊ねると、たいてい、なにもできていない。ようするに「巧くできない」のではなく、たんに「できない」のである。できないことの弁解として、巧くできない、と言うのだ。

つまり、企画や作品を最後まで完成させていない。それでは話に応えられない。巧くなくてもいいし、じぶんの思うとおりでなくてもいいから、とりあえず完成させてみて、としか助言できない。「どうしたら愉しく取り組めるか」と気にするひとも多いが、これも、まったく同じ回答で応えられる。

たとえ第一人者でも、常々に巧くできたとは思わないだろうし、じぶんの思うとおりにならないと感じているだろう。ただ、それでも作り続けて、しかたなく世に出している。十全でなくても、完成させる。今のじぶんにはこのくらいかもしれないけれど、それで好いじゃないか、とじぶんを褒めてやればいい。

ひとつの作品ができたら、次はもっと好いものを作りたくなる。だから、どうすれば好いか考える。次の作品は、前の作品の失敗を繰り返さないように気を配るだろう。だから、一作を書けば、「どうすれば巧くできるか」少しだけ判る。二作を書けば、「思うとおりに作れるか」も判ってくる。

結局、巧くなるのは、作り続けることである。だから、作り続けるひとは、そんな漠然とした疑問を覚えない。もっと高く、もっと深く、もっと明るい疑問を抱くのだ。