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「気づき」というのは、「なるほど」と感じる体験である。これは「わかった」と似て非なるものだ。新たにもたらされる知見ではあるけれど、情報が増えるだけではない。あらかじめ抱えていた疑問が解けたり、まったく係わりのないものが繋がったり、驚きを伴う納得を得て、その体験を愉しむ。

カンファレンスやゼミナールで「気づき」を求めるひとは多いけれど、その方向は却って狭まりつつある。気づくためには、見つけなければならない。見つけるためには、探さなければならない。しかし、自分の見たい方向ばかり見てしまう。自分の思うものが見つからないかなあ、と見渡して見張るだけなのだ。

すでに自分の思うことを相手が口にすると、「そうそう」と喜ぶ。少しばかり表現が異なるだけで、「それそれ」と嬉しくなって、気づきを得られたように感じる。若齢者よりも高齢者のほうが多いのではないだろうか。高齢者のほうが、日頃から思うところや感じるところを多く重ねる。少しばかり考察されたものに逢うだけで、納得を感じて満足する。

自分を確かめる作業は、大切だろう。しかし、自分が「納得したいもの」しか気づかないことも少なくない。わずかでも方向を違えたり、思うことから外れるだけで、もうここに「気づき」はない、と遮ってしまう。これも高齢者のほうが多いのではないだろうか。

むしろ、自分から遠く離れているほうが「気づき」は大きい。歳を重ねても、気が老いても、遠く離れるものを受け容れる柔らかさや撓やかさを持ち続けたい。見たいものだけ見る、聞きたいことばかり聞こえてくる、のは、あまりにも老いている。