小川軽舟 | 雅号の旅

角川学芸出版 「俳句」2012年05月号

雅号の旅 | 俳人の時間


1984年3月、一人旅の中国で長江を下る。

風に髪をなびかせている写真の青年は、大学生最後の年の私である。卒業前に私が選んだ旅先は中国大陸だった。日本のGDPを抜いた今の中国ではない。どこの町にも自転車と人民服があふれていた。

旅の最大の目的は長江の三峡下りだった。

  早に白帝城を発す 李白

 朝に辞す 白帝 彩雲の間
 千里の江陵 一日にして還る
 両岸の猿声 啼いて尽きざるに
 軽舟已に過ぐ 万重の山

私はこの詩の情景に魅せられて、長江の猿の声が無性に聞きたくなったのだ。重慶から武漢まで二泊三日の船旅だったと記憶する。

残念ながら両岸は開墾が進み、猿の声は聞こえなかった。それでも嶮しい山の迫る奔流を舟で下って行く気分は、解放された李白の喜びを身近に感じさせてくれた。そして、その時の私には思いもよらなかったことだが、やがて俳句を始めるときのために、私の雅号軽舟が胸に刻みつけられたのだった。

近年三峡ダムが完成して、長江の水位が一七五メートルも上がったという。私自身と同様、この写真の風景もすいぶん様変わりしたことだろう。


卯の花や箸の浮きたる洗桶 軽舟

柔軟な視点と溢れる知性で、若きリーダーとして揺るぎない存在感を放つ小川氏。選を通してさらにその世界は広がる。「どこが良いのか、なぜダメなのか自分の言葉で伝えたい。選者と作者が響き合って、新しい俳句を作っていきたいですね」。穏やかな表情を見せながらも、眼差しは鋭い。この春、単身赴任で関西へ。新境地への飛躍にいっそう期待が高まる。


小川軽舟
昭和36年、千葉県生まれ。昭和61年「鷹」入会、藤田湘子に師事。平成11年より同誌編集長。17年、湘子逝去の後、44歳で「鷹」主宰を継承する。句集に『近所』(第25回俳人協会新人賞)、『手帖』。評論集に『魅了する詩型 現代俳句私論』(第19回俳人協会評論新人賞)、『現代俳句の海図』ほか。21年に念願の『藤田湘子全句集』を刊行した。本誌にて「ここが知りたい!軽舟の俳句入門」を好評連載中。