小川軽舟 | 「いのち」「大地」「水」の俳句

毎日新聞出版 「俳句あるふぁ」2018年春号

毎日俳句大賞の選をともにして | 存在者・金子兜太「自由に生きる」


三年前の十月の終わりの土曜日、毎日俳句大賞の事務局長を務める石寒太さん、中島三紀さん、カメラマンの清野泰弘さんとともに、私は初めて金子兜太先生の家を訪ねた。戦後七十年を記念して毎日俳句大賞の本賞とは別に募集された「いのちの俳句」の選考のためである。選者は金子先生と私の二人。金子先生に東京まで出てきてもらうのは申し訳なくて、私が単身赴任先の大阪から上京したその足で金子先生の自宅のある熊谷に向かったのだった。

ソファのある客間に通されて、ガラス越しに樹木の多い庭を眺める。テレビ番組では見たことのある庭だが、穏やかにくつろいだ金子先生と眺めるのは感慨一入だった。「この庭で『梅咲いて庭中に青鮫が来ている』を詠まれたんですね」、石さんがそう水を向けると、「寒紅梅ね、一月になると咲きますね」、金子先生はその花時を思い浮かべるように目を細めた。

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それに先立つ三月、石さんから電話があった。金子先生単独選による「いのちの俳句」の企画を持ち掛けたところ、金子先生は、若い世代も選者に入ったほうがよい、例えば小川軽舟はどうかと提案されたということだった。私はそれまで金子先生とはほとんど話したこともなかった。強いて接点と言えば、平成十七年四月に藤田湘子が亡くなり、私が主宰を継いだ「鷹」の五百号(平成十八年四月号)を湘子の追悼号とした際、金子先生にお願いして追悼文を書いてもらったことぐらいだった。

この追悼文がおよそ追悼文らしくないいかにも金子先生らしいものだった。「この野郎とおもうことも多く、クセのあるおもしれえ野郎だ、とおもうことも多かった」、金子先生はこう率直に切り出した。金子先生の遠慮のない湘子の人物評は、互いに本音をぶつけあうことの多い仲だったからこそだろう。

湘子は若くして水原秋桜子の「馬酔木」で頭角を表し、年齢的に先行する金子先生ら大正八、九年生まれの俳人に対する強い対抗心を隠さなかった。金子先生が湘子と初めて顔を合わせたのは第二句集『金子兜太集』の出版記念会だそうだ。遅れてくるなり指名されて挨拶する湘子の第一印象は、「ずいぶん図々しい奴だ」「腹も立つが、凡百の俳人よりずっと頼母しい」と金子先生の認める、その湘子の跡継ぎだからということで私を思い浮かべてもらえたのだとすれば、これは湘子のおかげという他ない。

しかし、はたして金子先生の選と私の選は合うのだろうか、私の甘い俳句観を叱られるのではないか、と不安は拭えなかった。ところが選考が始まってみると、金子先生は闊達に意見をおっしゃる一方で、私の意見にも注意深く耳を傾けた。そして、何より選の一致するところが多かった。金子先生の熱心な批評を訊き、それに私も応じる中で、不安から来る緊張は、昂揚のもたらす心地よい緊張に変わっていった。

選考の結果、「いのちの俳句」の大賞は次の二句に決まった。

 ひまはりや最後の被爆者が死ぬ日 柊ひろこ

 はげまされ人は人生む星月夜 野村生子

いずれも金子先生と私の選の重なった作品である。柊さんの句について、金子先生は「最後の『被爆者が死ぬ日』が、ちょっとフィクションっぽい、うそっぽいという感じもあった」と思われたそうだが、年月を経て、もうそういう人がいるのだという悲痛な事実を受け止めようと考え直された。そして、私にはとても印象的だったことに、金子先生は「これが小川さんと僕の意見が一致するところだけれど、『ひまわり』という季語の働きが、非常に大きいと思うんだな」、「ここで次に希望が持てる」とおっしゃった。

不覚にも金子先生から「季語の働き」という評語が出るとは思いもしなかった私に、これは不意打ちだったのである。しかし、考えてみれば、「最後の被爆者が死ぬ日」という人事の内容に季語をぶつけて象徴的な働きを引き出すやり方は、人間探求派が現代俳句にもたらした最も重要な財産である。加藤楸邨門の金子先生が人間探求派の系譜にあることをあらためて目の当りにすると同時に、師系を遡れば水原秋桜子に行きつく金子先生と私の共通点を実感することができた。

野村さんの句は金子先生が迷わず推されたものである。観念的な「人は人生む」から、若い奥さんが励まされて一生懸命にお産に臨んでいる風景が展開する。「希望の星月夜」なのだと金子先生は言う。これは私の想像だが、金子先生は自分の母親に思いが及んだのではないか。翌年二月の授賞式の祝賀会で金子先生は、自分が長生きできたのは百四歳まで生きた母が十六歳でまるでうんこのように自分を産んでくれたからだと挨拶された。

総じて言えば、「いのちの俳句」として金子先生が選ぶ作品は戦争に関わるものが多かった。

 兄征きし昭和のホーム草茂る 岸しのぶ

 遺骨なき墓を洗ひて老いにけり 前橋竹之

「あの十五年戦争の時期を知らない人の中には、ただの事実報告じゃないかと読む人がいるかもしれない。そういう人に向かって私は、『出直してこい!』といいますね」と金子先生は笑いながら、しかし真剣な眼差しでおっしゃった。

応募作品に戦争の句が多かったことについて、金子先生は、「当然でしょうね。また、多くないようだったら、私は選者を辞退しますよ。私ははじめから、戦争に関わる句を選ぶつもりでいましたからね」と明かされた。「小川さんが、それ以外の句をとるだろうと、それくらいの見当でいたので、ちょうどいいあんばいでしたよ」。しかし、私は選のバランスをとるだけのために選者に選ばれたとは受け止めなかった。戦争を経験した俺の選をしっかり見ておけ、そう叱咤されているように、私はずっと感じていた。

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翌年は「大地の俳句」をテーマに再び金子先生と選考に当たることになった。このときは正木ゆう子さんも交えて講評会を行った。大賞を受賞した二作品のうち、金子先生の第一席は次の句である。

 一握り三月十一日の土 曽根新五郎

金子先生は、「これは絶対に『土』がなければダメな句なんですよ」と念押しされた。地震に揺らぎ、津波に襲われ、そして放射能に汚染された土である。一握りのその土に、悲嘆も悔恨も希望も、私たち民族のあらゆる感情が籠められているようだ。

そしてこのとき、一般の部に点字で応募して優秀賞を受賞した次の句を、金子先生がこれこそ本当の「いのちの俳句」だと激賞されたのが印象的だった。

 全もうの泳ぐ海なり自由なり 福井宏郷

金子先生は、この句を見て「ああ救われたな」と思ったそうだ。これは戦争を詠んだ句、震災を詠んだ句に対する金子先生の接し方に通じるものだろう。

昨年は「水の俳句」をテーマとして三たび金子先生と私で選考に当たることになった。選考時期になると金子先生の体調がずぐれず、これまでどおりの選考ができるか危ぶまれたが、金子先生の家を訪ねた中島さんから選をいただけたと連絡があって安堵した。そのときの金子先生はだいぶ気分がよかったのだろう。翌日は現代俳句協会七十周年の記念式典に車椅子で出席し、秩父音頭まで唄われたと伝え聞いた。

お会いして選考することはできなかったが、届いた選の一つ一つから金子先生の声が聞こえてくるようだった。金子先生が選んだ第一位は次の句だ。

 黒潮の隆隆と行く良夜かな 山形太

この句は私も第二位に選んでいたので、文句なく大賞と決めた。日本列島に沿って北上する黒潮と、それを明るく照らす月。大きな視座で私たちの国の姿が描き出されている。もはやそこには人間の愚行は描かれていない。三年にわたって選考をご一緒し、最後にこの句を大賞に選んだことを通して、この国をしっかり守れよ、と金子先生から託された気がした。


小川軽舟 「鷹」主宰