小川軽舟 | 生きるよろこび

毎日新聞出版 「俳句あるふぁ」2019年冬号

総論 いきるよろこび | 特集「俳句と暮らす」監修 小川軽舟


冬になると暮らしの中でふと思い出す句がある。

 温めるも冷ますも息や日々の冬 岡本眸

北風に吹かれて買い物から帰った手が冷え切っている。バケツの雑巾を絞る手がたちまち真っ赤になる。両手を口に寄せ、はあはあと息をかけて温めながら、ああ、冬だなあと思う。

食べものでも飲みものでも、冬は熱々のもので体を温めたい。うっかり舌を火傷しそうになり、ふうふう息を吹いて冷ます。眼鏡が真っ白に曇って、これもまた冬を実感するときだ。

そうか、冷たいものを温めるのも、熱いものを冷ますのも、どちらも息なのだ。そこに発見がある。発見といっておおげさなら、気づきがある。俳句はその気づきを詩に掬いとることができる。

この句は、気づきの楽しさもさることながら、それを一句にまとめる「日々の冬」が上手い。この日々は特別なことのある日々ではない。ふつうに暮らす日常の日々なのである。そうして暮らす一日一日に冬との出会いがある。この句の気づきの楽しさが、日々の暮らしの楽しさになる。

去る九月十五日に亡くなった岡本眸は、暮らしの中に詩を見出すことにすぐれた俳人だった。作者がこの世になくとも、この句は作者の冬の暮らしの実感をいきいきと伝え続ける。「温めるも冷ますも息」だと気づかせてもらって、私たちの冬も新鮮になる。作者の実感は読者の共感となって漣のように広がっていく。

私は『俳句と暮らす』(二〇一六年十二月 中公新書)の中で、俳句は「日々の生活とともにあって、それを大切な思い出に変えてくれるもの」だと書いた。俳句に刻まれた思い出は作者だけのものではない。俳句は作者と読者が思い出を共有することのできる仕組みである。作者の思い出は、読者の記憶の中の思い出を呼び覚ます。そこに読者の共感が生まれる。

私はこの本で、日常を「日記をつけ忘れた一日」に喩えてみた。日記に書くほどの出来事がなかった一日。そんな日は、あとから日記に記そうとしても、ほんの数日過ぎただけでもう何があったか思い出せない。だからといって、その一日の存在が無意味だったとは言えないだろう。思い出すことができなくても、その一日を私たちはいきいきと暮らしていたはずである。俳句はそのような何でもない日常の大切さを思い出させてくれる。眸の句によって、何でもない「日々の冬」は、大切な日常として書き残されたのである。

眸の俳句をもう少し眺めてみよう。

 鈴のごと星鳴る買物籠に柚子

 夫愛すはうれん草の紅愛す

眸は昭和三年生まれ。戦後に秘書として会社勤めをしながら職場句会で俳句を始めた。三十四歳で当時としては遅めの結婚をする。一句目は新婚の句だ。買物籠に柚子のあることがなんだかうれしい。もちろん新婚のよろこびが背景にある。作者の心の弾みが見上げた夜空の星を鈴のように鳴らす。次の句は数年経ってのもの。夫への愛がより身に添ったものになった頃か。「夫愛す」には恐れ入るが、ほうれん草の赤い根に目を留めたことで浮つかない。これらの句に自身の新婚時代の思い出を重ねる読者も多いことだろう。

しかし、その夫が突然脳溢血で倒れ、四十代の若さで帰らぬ人となった。子のなかった眸はこの世に一人残されることになる。

 柚子湯出て夫の遺影の前通る

 秋風や柱拭くとき柱見て

「喪主といふ妻の終の座秋袷」と詠んで一年、この柚子湯の句にはほっとさせられる。馥郁と香るような湯上がりの体を、写真の夫がちらっと盗み見るようだ。寡婦の暮らしがようやく板についた印象である。次の句は「柱拭くとき柱見て」に発見がある。他のものは目に入らない。家事に一心に打ち込むさまが潔い。

 日傘さすとき突堤をおもひ出す

 近すぎて自分が見えぬ秋の暮

日盛りに家を出る。玄関で日傘をさしたとき、ふと思い出した彼の日の海の突堤。日常にぽっかり空いた心の隙間を覗き込むような奥行きがある。次の句、毎日を誠実に暮らしていても、ときに自分が見えなくなることがある。「自分とは、一番近くて、一番遠い存在なのかも知れない」と自句自解になる。その自分を押し立てて私たちは暮らしていくしかない。

「温めるも冷ますも息や日々の冬」は、これらの句を経た眸の晩年の句である。そこまでの人生を背負っているからこそ今ある「日々の冬」なのだ。「俳句と暮らす」とは、俳句と生きることに他ならない。

*

日常は人それぞれである。サラリーマンの日常もあれば、主婦の日常もある。セレブにも日常があり、浮浪者にも日常がある。それぞれの境遇でそれぞれの日常を人は暮らすのだ。ふつうの人には非日常と見える世界も、そこに暮らせば日常になる。

 太陽にぶん殴られてあつたけえ 北大路翼

若手の句集を対象とする田中裕明賞を受賞した北大路翼の『天使の涎』は、新宿歌舞伎町に入り浸る暮らしから生まれた。この句は酔い潰れて朝を迎えた場面だろう。すでに高く上った太陽の光がまぶしい。「ぶん殴られて」はその実感なのだ。そして話し言葉のままの季語「あったけえ」。「酒と女とギャンブルと俳句の日々」にも毎日朝が来て、毎年春が来る。

 春暁のママが食器を洗ふ歌

 引つ張り合ふ女の喧嘩鳥帰る

 キャバ嬢と見てゐるライバル店の火事

この句集に収められた大量の俳句には、平凡に暮らす私にいささか露悪的、煽情的と見えるものも多い。ここに挙げたのは描かれた場面が私にも素直におもしろいと思えたものだ。ふつうに暮らす人にとっての非日常が、翼の日常なのだ。

素材の際どさが目を引く句に交じって、作者の心情が吐露された句がある。

 バス停に吸ひ殻流れ花の雨

 マフラーを地面につけて猫に餌

 俺のやうだよ雪になりきれない雨は

せつなさ、やさしさ、やるせなさの滲んだこれらの句はとても魅力的だ。過ぎてしまえばわざわざ思い出すこともない瞬間が俳句として書き留められている。

翼は『天使の涎』の三年間に続けて、さらに二年間の作品を句集『時の瘡蓋』にまとめている。そのあとがき「寸感」で、今年が三十代最後の一年だという翼は、「いま僕は焦つてゐる」と言う。「この調子だと健康でゐられるのはさう長くないだらうから、勝負できるのはあと十年もない」とこぼしつつ、それでも「最後まで走り切らうぜ」と結ぶ。この暮らしは翼にとってもけっして楽ではないらしい。それでも翼が敢えて選んだ暮らしなのだ。

思えば松尾芭蕉の深川隠棲も、芭蕉が敢えて選んだ暮らしだった。

 櫓の声波を打つて腸氷る夜や涙 芭蕉

芭蕉は郷里の伊賀上野から俳諧師を目指して上京、苦労してようやく念願の宗匠となった。しかし、それもつかの間、日本橋での都会暮らしを棄てて隅田川を渡った深川に移り、弟子の施しだけで生きる貧寒の草庵暮らしを始める。

芭蕉はここで、杜甫の漢詩の世界を我が身に引き寄せる暮らしを始めたのだった。芭蕉庵は隅田川のほとりにあって舟が行き交った。芭蕉はこれを、戦乱を逃れた杜甫が成都の浣花渓のほとりに暮らした草堂になぞらえた。杜甫が老杜と呼ばれるのに倣って、自ら「乞食の翁」と称した。

「腸氷る夜や涙」とは芝居ががって仰々しい。そんなに辛ければ日本橋に帰ればよい。しかし、芭蕉は敢えてこの暮らしを選んだのだ。寂寥に耐え忍ぶことを通して杜甫の詩境に深く共鳴する。そして、そこから生まれる俳句を世に示そうとしたのだ。覚悟を決めて暮らし始めた以上、へこたれるわけにはいかないのである。

芭蕉は自らアウトサイダーの暮らしを選んだ。俗世間を離れて風狂を旨として暮らし、そこから遥かな旅に出た。人はそれぞれ生業について生きている。憧れてはみても誰もが芭蕉のように暮らせるわけではない。芭蕉はふつうに暮らす人の夢を背負ってアウトサイダーになった。ふつうに暮らす人は、芭蕉を支援することで、自分にはできない憧れの実現を芭蕉に見る。

翼のアウトサイダーぶりもそれに似ている。もっとも翼は施しではなく自分で働いて生計を立てている。それだけに苦労も多いだろうけれど、彼もまたふつうに暮らす人の夢を背負って暮らしているのだ。

芭蕉はといえば、「おくのほそ道」の達成の後、我が身の老いを感じるにつれて、芸術的理想と日々の暮らしの距離を縮めていった。ふつうの暮らしの中でてらいのない俳句を作ろう。それが軽みである。芭蕉は常に新しみを求めて作風を革新し続けた俳人である。軽みはその道程の一つだったのかもしれないが、結果的にそこで芭蕉の寿命が尽きた。

 ひや/\と壁をふまへて昼寝哉 芭蕉

芭蕉が大阪で客死する三ヶ月前に大津の門弟の家で詠んだ句である。暑さの中で行儀の悪い昼寝だが、壁に足をつけるとひんやりして気持ちがよいのだ。もはや芭蕉の暮らしに旅先とわが家の区別はない。どこにいてもそこが暮らしである。この句はその暮らしの中の偶感。日記に書くような出来事ではない。けれどそのとき芭蕉はどんな心持ちでいたのか、安楽な気分の中にもどこか寂しさが去来する。その心持ちが確かに一句に書き留められている。

*

私が日常の暮らしに目を向けようとしたきっかけは東日本大震災だった。日常はあまりにもあっけなく失われる。だからこそ、今ある日常が尊い。そして翌年、私は長年勤めた銀行から関西の鉄道会社に移り、単身赴任の暮らしが始まった。単身赴任など世の中ではめずらしいことでもないが、私自身は初めてだから新鮮だった。そしてこの新鮮な暮らしが、俳句ではまだあまり詠まれていなかった。その頃「俳句」から新作五十句の依頼を受けて、私は少々ためらいながらも、そのタイトルを「単身赴任」としたのだった。

 妻来たる一泊二日石蕗の花 軽舟

この句のことは『俳句と暮らす』にも書いた。俳句としての出来栄えには目をつぶってもらうとして、これは私の単身赴任の暮らしにとって欠かせない句である。単身赴任先の神戸の家に、年に何度か妻は来てくれた。しかし、学校に通う二人の子供の世話があるので、来るのは土日だけだ。つまり一泊二日。着替えを詰めた妻の旅鞄が部屋の隅に置かれていて、まるで旅館のようだ。それが私には新鮮だったのである。

敢えて選んだ暮らしにも、やむなく受け入れた暮らしにも、俳句は均しく寄り添ってくれる。俳句はその暮らしを力づけてくれる。平凡な人生であっても、本人にとっては一度きりの経験であり、一日一日が新しい。そう実感させてくれるのが俳句である。すなわち、生きるよろこびを与えてくれるのが俳句である。

今年、「鷹」の仲間がこんな句を投じてきた。

 送火や三泊四日妻帰る 野尻寿康

作者は鴛鴦のようにいつも連れ立って俳句を作った妻に先立たれた。その妻が、お盆の間だけ家に帰ってくる。生前と同じように帰省した子や孫と賑やかに過ごすと、そこにはほんとうに妻がいるように感じたことだろう。その妻に送火を焚く。たった三泊四日だったなと思う。三泊四日――ここには妻に先立たれた男の発見がある。これは私の句への挨拶でもある。一泊二日でも生きて来てくれるならいいじゃないか。

作者の心情を思えば悲しい句なのだが、なぜか明日に向かって生きる力が湧いてくる。作者はこの句を得て、男やもめとして暮らす道を踏み出したのだ。その暮らしに俳句は寄り添い続けるだろう。

暮らしは平凡であっても、そこから生まれる俳句は平凡ではない。そう信じて俳句と暮らしたい。


小川軽舟 「鷹」主宰