小川軽舟 | 秀句の風景 2019年02月

鷹 654号 2019年02月

今月の鷹誌から 秀句の風景


 紅顔と白骨の謂枯はちす 景山而遊

「紅顔と白骨の謂 」とは、蓮如上人の「白骨の御文章」の中の「されば朝は紅顔ありて、夕には白骨となる身なり」を指す。私たちは、朝には若々しい紅顔を輝かせていても、夕には白骨となるかもしれない儚い身である。仏教の無常観を表わしてよく知られた一節だ。

作者は今、枯蓮の前に立っている。夏には麗しい緑の葉に紅の花が照り映えていたのに、今は蕭条たる冬景色の中、白骨さながらの姿である。なるほど蓮如さんの言うとおりだと作者は思う。紅顔と白骨、それに蓮の花と枯蓮のイメージを重ねたことで、蓮如の言葉がいっそう生気を帯びる。枯蓮を取り合わせるだけで、蓮の花はおのずと読者の頭に浮かぶ。作者はそれを憎らしいほど心得ている。

  駭かぬ喪中はがきや虎落笛 而遊

  七回忌済まして常の年の暮

今回のこうした作品を並べてみれば、而遊さんの心が白骨の側に近くあることは間違いない。一面の枯蓮は無常観から逃げることなく向き合う作者の心象そのものだ。そして、妻を筆頭に亡き人々の面影が蓮の花のように浮かび上がる。


 藪巻や夜目にも白き波がしら 西村薫

打ち寄せる波の轟きが今にも聞こえてきそうな句だ。「夜目にも白き」は使い古されたといってよい慣用表現なのだが、上五の「藪巻や」が見事に座って、慣用表現の弱さなど感じさせない。「や」の楔を打たれた一句の構造がびくともしない強靱な印象である。

  かたかたと鳴る映写機や雪をんな 薫

  肉落ちし瞼枯野のひろごれり

薫さんの本領というべき詩情は、これらの句の方により濃いとは言える。魅力的な二句だ。そして、これらの句があるからこそ、藪巻の句もまた引き立つのである。


 政岡にさしぐみにけり村芝居 古川明美

村芝居ながら演目が「伽羅先代萩」とは本格的である。伊達騒動の最中、乳母の政岡はわが子を犠牲にして幼君を守った。その名場面を、今年の収穫を終えた村人が、歌舞伎役者に成りきって演じている。田舎芝居そのものでも、やっぱりこの場面では泣けてしまう。さしぐむとは涙ぐむこと。この古語が味わい深く働いている。


 頬被して談合のコップ酒 伏見ひろし

大手ゼネコンの談合事件ともなれば全国ニュースで取り上げられるが、こちらは田舎の土建屋同士の談合といった様子である。工事現場の焚火の前でコップ酒をやりながらといったところか。お互い食いっぱぐれがないように、村の公共工事の入札前に示し合わせるのだ。談合が明るみに出ても頬被りを決め込む、そういう意味が忍ばせてあるところに、この句の芬々たる俗臭があるのだが、それも悪くない。


 小六月駝鳥の羽の貧乏くさ 羽村良宜

駝鳥の羽が貧乏くさいとは、言われてみれば確かにそんな感じがする。あの大きな体を飛ばすこともできずに、ちょこんと尻の上に被さっている羽。

  何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。
  動物園の四坪半のぬかるみの中では、
  脚が大股過ぎるぢやないか。
  頸があんまり長過ぎるぢやないか。
  雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢやないか。
  (高村光太郎「ぼろぼろな駝鳥」より)

同じところに目をつけても、光太郎がかくも悲愴感を込めて詠嘆するのに対して、掲句の「貧乏くさ」は俳味たっぷり。貧乏くささが匂い立つような小六月の季語もよい。


 コの字なす学生寮や小鳥来る 加藤香流

学生寮にもいろいろあるが、私は全寮制の学校の敷地の中にある寄宿舎を想像してみた。「コの字なす」の描写には建物を俯瞰していることが感じられるから、学校の裏山にでも登ったか。木々の葉は色づき始め、渡ってきた小鳥たちが飛び交う。そろそろ寮の部屋の灯りが点り始める頃か。


 葉牡丹や小雨に人を迎へたる 長澤綾子

雰囲気のよい句だ。門から玄関までの傍らに葉牡丹が植わっている。予定していた客が手土産を提げて小雨の中をやって来た。傘を差して挨拶を交わす。「迎へたる」にその人と過ごす時間の楽しさが予感されている。主人と客が家に入って庭に静けさが戻る。葉牡丹に雨粒が光っている。


 星消えし冬至の朝や聖書読む 山本和子

夜が明けやらぬうちに目が覚めたのだ。冬至の夜明けは一際遅い。スタンドを点けて聖書を読む。ページをめくる指先が冷たくなる。それを息であたためて読み進む。「星消えし」によって、星空が明けてゆくまでの時間が一句の背景となった。それは聖書と向き合う心静かな時間であった。