小川軽舟 | 秀句の風景 2019年06月

鷹 658号 2019年06月

今月の鷹誌から 秀句の風景


 カフェ・バンコク猫の子の名もパクチーで 柏倉健介

カフェ・バンコクといっても、タイのバンコクにあるわけではあるまい。東京のどこか盛り場にあって、タイ料理を出す店なのではないか。店員も多くはタイ人だ。昨今のパクチーブームのおかげで店はそれなりに流行っている。そこで飼われている子猫がパクチーの名で呼ばれていたという、それだけの句である。

私はこの句に新人会メール句会で出会った。「意味内容ではとれないけれど、調子の良さでとれる。それも俳句」と評してとった。「猫の子の名もパクチーで」と声にするのが妙に愉快だったのだが、私以外の選は入らなかった。鷹集の投句葉書で再びまみえると、内容もけっして悪くない。いや、とてもおもしろい。

平成の三十年間、アジアの急成長をよそに日本経済が停滞し続けたため、もはや日本はアジアの中で特別な国ではなくなった。アジアから観光客と働き手を迎え入れなければ、これからの日本経済は成り立たない。そんな時代のカフェ・バンコクなのだ。そして、拾われるか貰われるかしてこの店にどうにか生きていけそうな場所を見つけた子猫は、れっきとした日本生まれなのにパクチーと呼ばれている。その生き様が実に子猫らしい。こんな子猫の句はない。

  フランソワーズのさふらんの芽と歯ぶらしと 山地春眠子
 
「鷹」昭和五十三年六月号に颯爽と現われたこの句と比較するのもよかろう。二つの句の間に四十一年の歳月が流れている。昭和の日本はアジア唯一の先進国で、憧れの対象は西洋だった。現代は違う。アジアの国々、アジアの人々とモザイクのように入り交じって、この句の子猫のようにしたたかに生きていかなければいけない時代の掲句なのだ。


 流れゆく浮藻に積もり春の雪 山中望

美しい叙景である。水の流れに雪が降りしきる。明るい春の雪だ。水面を藻が流れて行く。その藻の上にも雪が積もる。情景のすべてが動いている。雪をのせた藻も流れているのだが、作者が目で追っているからそれだけが静止して見える。しかし、その画像もたちまち視界から遠ざかる。その速度が叙景の美しさを際立たせる。

浮藻という言葉は北原白秋が使っている。

  水馬赤いな。ア、イ、ウ、エ、オ。
  浮藻に小蝦もおよいでる。

で始まる「あめんぼの歌」は大正十一年作。正式な題名は「五十音」で、日本語の音の本質を子供に覚えさせる意図で作られた。もう一句、

  ぼんやりと池の底あり百千鳥 望
        
こちらも味のある叙景だ。泥の沈んだ池の底が「ぼんやりと」で的確に言い止められている。すぐれた叙景は叙情に通じる。浮藻の句には切迫した情感、こちらの句には物憂げな情感が表われている。


 政策がわるいと雨の種苗店 松佐古孝昭

時分になると種物や苗を買いに行くなじみの店の主人なのだろう。商店街が寂れるのは政策が悪い。農家が年寄ばかりなのは政策が悪い。なんでも政策が悪いが口癖。雨で客が来ないのも政策が悪いと言いたげだ。

歳時記にあるのは種物屋で、種苗店はない。しかし、作者が詠みたいのは、歳時記の中の種物屋ではなく、町にある種苗店なのだ。無理に種物屋などと言う必要もない。

  空罐にたまる雨水種苗店 桂信子

桂さんも、今そこにある種苗店を、そのままの風情で詠みたかったのだろう。


 筆替へし尚尚書や春障子 甲斐正大

今年の新年句会で私は芭蕉の手紙の話をした。その際、尚尚書にも触れた。尚尚書とは今で言う追伸である。今なら便箋を何枚でも使えばよいが、芭蕉の時代、紙の終わりまで書き終えたら、初めに戻って行間に「尚尚云々」と書き込んだのである。この句は私の話に応じた挨拶らしいが、挨拶だけに終わらぬ描写になっているのはたいしたものだ。細筆に持ち替え、春障子の明るさの中で、書き切れなかった思いを記す。それがいかにも尚尚書の風情なのである。


 誰彼の忘れられたる紙風船 近藤洋太

死んで忘れられる人もいれば、いつの間にか姿を見せなくなって忘れられる人もいる。忘れられる方も悪いが、忘れる方も悪い。少なくとも自分はそう簡単に忘れたくないし、忘れられたくもない。そんな思いが感じられるのは、すぐに飽きられ畳に放り出された色鮮やかな紙風船ゆえである。


 雨粒の転がる音や灌仏会 季村敏夫

雨粒の転がる音が聞こえた。そんなはずはない。嘘に決まっている。そうわかっているのに、この句の中では確かにその音が聞こえる。季語の力だ。お釈迦様が生まれた日なら、雨粒が楽しそうに音を立てて転がってもよいではないか。